皆様こんばんわ。ワサ子です。
2泊3日の長崎旅、前回と前々回の記事では、長崎1日目のハウステンボスを満喫した、ワサ親子。
↓前回までの漫画記事がこちら↓
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そして今回長崎2日目、まず紹介したいスポットはこちら!
世界文化遺産の島
軍艦島(端島)
世界の廃墟シリーズ好きの人には知らない人は居ないほど有名な、ここ長崎の軍艦島(端島)。
この見た目から、ネット上では「幽霊が沢山いる島」とか、軍艦島と言う名前だけあってなんだか歴史的に戦争で悲しい事でもあったのかな、なんて想像してしまうかもしれませんが、軍艦島が歩んだ本当の歴史は、皆さんの想像とは少し違うものかもしれないです。
長崎港で軍艦島クルーズに申し込み、港を出港して40分ほどすると軍艦島が見えてくる。
↑この写真の様に、遠くから見た端島は本当に軍艦みたいに見えた。
そして、予想を上回る島の小ささにビックリする。
島の大きさは、南北に約480m、東西にはなんとたったの約160m、そして周囲約1,200m。
最盛期には島民が約5,300人もいたなんて、本当に信じられない。
さぞ島民の人達は住みづらかったに違いないと思いきや、当時この端島は「日本一住みやすい町」とも言われていたらしい。
この島には、病院に理髪店、神社に市場、プールなどの娯楽施設に売春宿までも、全てが歩いて行ける距離に揃っていたからだそうな、、。
↑一番右に見える大きな7階建の建物が、当時、島で唯一の端島小中学校だったとの事。
↓当時の子供たちの様子↓
人口密度が東京の約9倍もあったという端島では、ビルの屋上を遊び場にしたり、屋上菜園をしたりと、暮らしの知恵が伺える。
↑軍艦島に上陸してすぐ見える風景がこちら。
写真中央に8つほど柱だけが残っているが、当時ここは貯炭場のベルトコンベアーがあった。
↓当時の様子↓
そして上陸すると、当時実際に軍艦島の総合事務所で働いていたという、女性案内人の方が丁寧に建物の説明をしてくれます。
↓炭坑へと向かう当時の炭坑員達↓
ちなみに当時(昭和47年頃)、他のお仕事など新卒のお給料が大体5〜6万円だったのに比べ、炭坑員のお給料はその約4倍の20万円ほどの高給だったそうです。
ただ、いくら高給取りと言っても彼らの仕事は本当に命がけのもので、昔はメタンガスによる爆発もよく起こり、粉塵によるじん肺患者もたくさんいたのだそうです。
あの桟橋の階段を上る度に、「今日こそ何か起こるかもしれない。」という命の覚悟を決めて、彼らは炭坑に赴いていたのかもしれない。
ところで、去年2017年に韓国で、端島がモデルになったという映画「軍艦島」が放映され、日韓で様々な物議を醸す事となりましたが、ワサ子ブログはあくまでも、おチャラケギャグ絵日記をモットーにしたブログなので、この映画についていろいろ意見したい事はありますが、とりあえずお口はチャックしておきます。
ですので、今から言う事は、あくまで私個人の、実際に軍艦島を訪れた際に感じた島の印象です。
万が一、私の感想を読んで何か物申したい事などありましたら、気軽にコメントして下さいね。
高度経済成長期の活気ある日本人達を彷彿とさせる軍艦島
この軍艦島については、ネット上ではたまに、まるで心霊スポットの様に書かれている事もあるけど、
この島は明治から昭和にかけての日本の急速な高度経済成長期を支え、
悪条件のもと命がけで働いていた炭鉱員達のエネルギーと、
当時の東京の約9倍もの人口密度に達していたという極小の島の生活の中で、どんな状況下でも暮らしを豊かにしていこうという、島民達の生きる知恵を感じる事のできる、
建物は朽ちても激動の時代を生きた当時の日本人達のエネルギーを感じる事のできる島でした。
、、、、終わり!!
今回、ちょっと真面目な旅レポになってしまったので、次回は長崎旅レポは少しお休みして、日常漫画に戻ります、、!
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